くさぎ(臭木)な丼

 くさぎな丼を漢字で書くと「臭木菜丼」ではないかと私は推測しています。「菜」という漢字が私の推測です。この料理は平仮名やカタカナでしか、メニューには載せにくいですよね。「臭木」と漢字で書いてあったら、食欲なくなりますもの。
 「臭木」というのは、この樹の呼び名ではなく、正式名称です。クマツヅラ科の樹で、葉や茎に傷をつけると、臭い匂いがするところから、この名称になったようです。
 全国に分布している樹なので、全国どこでも「くさぎな」料理があっても不思議ではありませんが、でも、郷土料理として伝承されている地域は少ないのではないでしょうか。
 この「くさぎ」の料理が今に残っている地域は、たぶん、山間部で、昔、何度も飢饉を経験した貧しい地域ではないかと思います。旧加茂川町(現吉備中央町)も山や谷が多く、耕地面積の小さな畑や田が多いところでした。この地域の飢饉は、年貢の軽重だけではなく、そもそもが耕地面積の少なさからくるものが多かったのではないかと思います。
 加茂川町の昔をしのばせる言い伝えに「人面石」というのがあります。小さな谷川のそばに大きな岩があって、昔、飢饉のときに年寄りが、子や孫に少しでも食べ物をまわそうと、岩から下の谷川に投身自殺をし、その哀しい年寄りの顔が石に写っているというものです。何年か前、選挙の応援カーに乗って、この岩の近くを夕暮れ時に通ったとき、同乗していた旧加茂川町の住民が「恐がらせてやろう」という意図丸見えで教えてくれました。
 「なまこ」と同じで、誰が最初にこの臭い木の葉を食べてみようと思ったのかわかりませんが、でも、たぶん、非常におなかのすいていた人でしょう。最初の蛮勇(?)の人から年月を重ねて、今のかたちの料理にたどりつきました。生の臭木の葉の匂いや灰汁やらに諦めることなく、今の「ハレの日のごちそう」にまで昇格させた人たちの不屈の工夫精神には脱帽です。
 「くさぎな」が今も吉備中央町の郷土料理であり続けているのは、吉備中央町の御北(みほく)小学校のような活動が支えているのかもしれません。興味のある方は、御北小学校のHPを検索して「くさぎな丼のつくり方」をひらいてみてください。児童が地域の住民のところにでかけて行って、くさぎなを収穫して、ゆでて干してという作業をしているのが紹介されています。