思秋期
その子に初めて私が会ったのは生後六か月の時。その子の母親と友人になって自宅にお邪魔した時でした。それから早くも二十数年。今日、その母親である友人から娘が来年は結婚しそうなの、と聞かされました。
友人の人生は自分の母親の支配から逃れるということに力を注いだ日々でした。「愛情」という名で自分を支配しようとする母親に反発して、でも反発する自分に罪悪感をもち、でも、やはり母親の思いのままの自分になるのが嫌で、家族を母から守るのよ、とまで言っていました。
でも、今日、娘が来年、他県に行ってしまうと言って涙ぐむ彼女が言ったこと。「私も母のように娘のところに夕食を届けたり、一緒に買い物したりできるとばかり思っていた」と。私が若かったら、笑ったせりふですが、私も娘を持つ母親。思わずもらい泣きをしそうでした。
「いいじゃない、子供に幸せになってもらうために育てたんだから」とわかったようなせりふを言いながら、彼女の寂しさを他人事にはできない私でした。
人生を重ねていくうちに、「女」「母親」等々、いろいろな役割を演じ、そしていずれはその役を降ろされる時を迎えます。厳密には降ろされたわけではないけれど、実際にはその役割を必要とされなくなってくる時がやってきます。人生の過程の中で、押し付けられたり、自ら志願して演じてきた役割、今までかぶってきたいくつもの「外殻」を脱いだ後、自分に残った「核」って、いったいどんなものなのだろうと思う今日、この頃です。
とうもろこし、ぶどうと怒濤の如く続いた日々がやっと終わり、心に余裕ができた日の思いでした。