たかがトイレ、されどトイレ
いきなり尾籠な話で失礼します。昔、どこかで読んだ話で、畑にトイレがないために嫁に逃げられた男性がいました。農繁期、家族で畑にでていて用を足したくなった時、若い嫁さんの場合、ほとんどが自宅に戻ります。それが、男性陣と姑さんには時間の無駄としか思えない。その辺の草むらに行けば、いくらでも人目から隠れるところがあるじゃないか、と。農家の労働には、力を合わせなければできない作業というのがあって、嫁さんが抜けると、その間、他の人間の時間まで無駄になるという彼等の理論は正しい。私も農作業をする人間として、その辺の事情はよくわかります。が、若い嫁さんにとっては、それは人間の尊厳にまでかかわる問題で、それを単なる「わがまま」とされるのは我慢ができず、ついに離婚にまで至ったという話でした。その話を読んだ時には、私は単に「へぇー」という感想しかありませんでしたが、なぜか記憶に残っている話でした。それが、その件に関して、最近、興味深い本を読みました。敬愛する米原万里さんの「パンツの面目ふんどしの沽券」という題名からしてだだものではない本です。在プラハのソビエト学校に在学中の四年生(10歳)の時の、家庭科の初めての裁縫の授業で縫ったものが「パンツ」だったという嘘のような本当の話から始まるエッセイには笑いながらも考えさせられる話がぎっしり。その中でも戦後、シベリアで捕虜生活を過ごした日本人にとって、食料と同じぐらい重要な問題はトイレに「紙」がなかったことだという話は感慨深いものがありました。生存が危ういような厳しい収容所生活においてさえ、日本人は「紙」=排せつを人間性の「尊厳」としてみる。「紙」が与えられない自分たちは「犬」と同等の扱いだと。たとえ、セメントを包んであった袋の紙で使用後にどこかがひりひり痛もうと、それを揉んで柔らかくしてとにかく使用していた日本人捕虜。後で、当時のソビエトにはトイレの後に紙を使用する習慣そのものがなかったので、捕虜に対して「紙」を支給するという発想そのものがなかったとわかります。「トイレ」は禁断の話題でありながら、人生や人間性にまで深くかかわってくる非常に重要な問題のようです。どこかの国では、捕虜に口を割らせるための拷問の一つの方法として、「トイレ」を有効利用するとか・・・・・。そこで、提案。食料自給率アップの為に農村を活性化させたいのなら、若者定住のために、政府のお偉い方、どうか農場にトイレを作るための「トイレ補助金」も考慮してください。安い農産物価格で高い資材・肥料代を負担している農家には、観光を売り物にしている農家でない限り、農場にトイレを設置するような余裕はありません。現場には、机の上だけの理論と計算ではわからないことがたくさんありますので、そのあたりのご配慮もよろしく。ちなみに私もうちのパートさんも車で会社に帰ります。