農作物詐欺、泥棒、虐待、教育
最近、収穫時を迎えた農作物を盗まれたり、代金は後から振り込むからということで、大量に農作物を送らせて、そのまま連絡不通のケースがあるようです。
わがファームはお客さまに対して、原則、先の振り込みをお願いしています。お客さまには不愉快に思われる方もいらっしゃるでしょうが、仕方ありません。農業者も「善意・素朴」だけではやっていけない時代なのです。
農業が人気のない職種になっている原因のひとつが、完全な先行投資の産業ということもあると思います。種代、肥料代、農薬代、人件費、その他のいろいろなものを先に支払って、そして収穫の時を迎えます。その時に台風等の災害で売り上げが減少しても、かかるものはかかっているのです。だから、私はいつも収穫時には、びくびくしながら天気予報等をみています。でも、天災の場合、なんといってもあいては「自然」ですから、あきらめないと仕方がありません。
ですが、相手が人間の場合、「こんなに苦労してやっと収穫の時を迎えたのに」と思うとやるせない思いと怒りで一杯になるでしょう。特に、「他人が汗水流して、苦労してやっと作ったものを、横からかすめていくなんて人間のすることではない。」という強い怒りは農業をまじめにやっている人に共通する思いだと思います。
でもね、私は思います。そもそもそんな思いを想像できる人はそんな盗みなんかしない、と。他人の苦労や大変さなんて関係ない、目先のお金の方が大切さ、という人間が増えている中で、「正当な怒り」はどれだけの力をもつことができるのでしょうか。
そこでまた、思います。「他人の思いを平気で踏みにじれる人」は今までどういう生き方をしてきたのだろうかと。
昨今、親が幼いわが子を虐待の果てに殺す事件があいついでいます。そして、恐いことに「児童虐待」の事件に衝撃を受けるより「またか」と思ってしまうぐらい、日常的な犯罪になってきています。この種の犯罪の恐いところは、殺されたりよほどの重傷を負わされない限り、事件にならないことです。氷面下にどれだけの予備軍がいることか。そして、生まれて最初に無条件で信頼してもいいはずの人間に、裏切られ、傷つけられて成長しなくてはならない人たちがなんと多いことか。
「他人の嫌がることをしてはいけません」、幼稚園や保育園で教えてもらうこのことが、物心つく前から親に虐待を受けている子が理解し納得できる言葉とは思えません。そして、そういう成長の仕方をしている子が、小学校、中学校の義務教育の中で暴れると、教員や他の児童に深い傷と無力感をもたらしていきます。成長期にそういう傷と無力感を味わった子たちが大人になっていくのです。
経済のグローバル化とは、「荒んだ社会」を拡大していくことと同意義かもしれません。
せめて、田舎の自然環境と高齢者の多い環境の中では、「荒み」もぼやけてうやむやのうちに消えてなくなっていかないかなと思いこの頃です。