毛皮を召されたお子さまは
知人の直売所の店長が嘆いておりました。お客さんの中に、犬を抱いたまま直売所の中に入ってきて、片手に犬を抱き、片手で野菜を吟味するので、「お客さん、犬はつれて入らないでください」と注意をすると、大抵、にらまれるのだとか。
「野菜は食べ物だぜ、衛生ちゅもんを知らんのかね」と彼は憤りながら苦悩しています。
おまけに彼にとって理解不能なのは、それをするのが中年の女性だけでなく、熟年の男性や、夫婦の場合もあるということ。私はその彼の嘆きを聞きながら、それはあなたが言葉を選ばないからよ、と笑っていました。
そう、小学生と中学生と高校生という3人の人間の「親業」現役バリバリの彼にはわからないのです。彼にとっての「犬」が熟年の女性や夫婦にとってどんな存在なのかということが。
私の友人の多くは、子供たちが進学等で家をでていって、夫婦2人になってしまった人たちが多いのです、その彼女たちがほとんど言うのは「主人と2人でごはん食べてても、何の会話もないんよ、テレビの音だけが聞こえてる時があるわ」ということ。それが、何かのきっかけで犬か猫を飼いだすと、途端に会話が増えてくるのです。そして、ここが面白いところなのですが、熟年夫婦が愛犬や愛猫にかける言葉というのは、肯定的表現が多いのです。猫があくびをしても「まあ、かわいい」、犬がワンとないただけで、「おりこうね、返事ができるのね」といった調子。ある友人夫婦は、最近、子猫を拾って、その猫をかまっていたら、隣人から「お孫さんでもできて連れて帰られたの?最近、よく笑っている声がきこえるけど」と言われたとか。仕事一筋のご主人は、自分の子供たちが小さい頃は、子育てに非協力的だったのに、猫には、とっても甘いのよ、とその友人は苦笑していました。
年齢を重ねてくると、若い頃には感じることのなかったある種の「寂しさ」を感じることが多々あります。ふとした時に感じる肉体の老いだとか、戻ってはこない楽しかった「時」の記憶だとか・・・・・。ペットが飼い主にむけてくる「純粋な信頼感」や「愛情」のようなものが、時にこの「寂しさ」をまぎらわせてくれるものになるような気がします。そして人間の子供と違って、将来や自立、といったことを考えてやる必要のないペットは、自分の力で幸せにしてやることができると思える自己満足感も与えてくれます。
ですから、私は笑いながら店長に言いました。
「犬、というその愛想のかけらもない表現がだめよ。そういう時には、お客さま、申し訳ありませんが、毛皮を召されたお子様は、ご遠慮ください、とでも言ったら」と。
確かに、動物嫌いの人や、衛生のことを考えると、「うちの子は汚くありません」と言い切って怒る側に問題があります。ありますが、誰かその人たちに、社会のルールでは「犬」は人間の子供と同等にはならないんだ、ということをおだやかに納得させてやってください。私もその「寂しさ」が身にしみている境遇で、猫バカゆえ、互いがめくじらたてて非難しあうのは哀しいのです。