山里のダチョウ物語
とある時代。それは後世の人間から「バブルのはじけた後」と言われる時代でした。ある大都市のある会社のある社長が、バブル後の成果主義の嵐の中で、心身を病む自社の社員に良心の呵責を感じたことからこの物語が始まりました。
社長は考えました。病んだ社員に自然環境豊かなところで、仕事を与えたら、給料も払ってやれるし、心身を回復させてやることができるのではないかと。そして、また社長は考えました。自然環境豊かなところで、社員を養ってやれるだけの仕事って何だ?と。まず浮かぶのは農業。でもたぶん、社長はすぐにその考えを却下したのでしょう。
バブルは都会では狂騒でしたが、地方、それも田舎といわれるところには彼岸のできごとでした。地方経済は失速していました。その中で、誰が仕掛けたのかは知りませんが、ひそかなブームが起きていました。「ダチョウブーム」です。ダチョウの皮はオーストリッチとして高級皮の名称になっていました。バックや財布には高い価格がついていました。
そこで、誰かが考えました。ダチョウを飼って、国内で「皮」を生産しよう、それになんといってもあの体だ、肉は大量にとれるし、一石二鳥、いやいや観光農園でもしたら一石三鳥よ、と。誰かが考えたこの発想は、それはいい考えだと同調してくれる人もいました。「町おこし、地域おこし」という考え方とも結びついて、国内に結構な数の「ダチョウ飼育」が始まったと聞いています。そして、かの社長もその考え方に同調した一人になりました。
なんのご縁か、社長が「ダチョウ飼育の場」として選んだのが吉備中央町でした。かくして吉備中央町の山の中で「ダチョウの放鳥」がおこなわれるようになったのです。
しかし、バブル後の不況では、消費は伸びず、いつしかオーストリッチも価格を下げ、そして大都会ではあの「社長」も故人となってしまいました。そして、ここに「ダチョウブーム」の大きな落とし穴があったのですが、「皮」をとるためには、殺したダチョウを解体処理する施設がなくてはなりません。そして、それなりに技術をもった人間も必要になってきます。だからこそ、新しい産業が生まれ、雇用が生まれというのが「町おこし」の考え方でしたが、先の見通しがたたないものに、大金を投入する人も企業も自治体もありません。施設、設備、人材をいったいどうするんだ、という部分で国内の「ダチョウ飼育」の熱は冷めていったと聞いています。
故人の後継者の方は、「ダチョウ」に興味もないし、かけるお金もありません、ということで、町に施設ごとすべて寄付します、ということになってしまいました。
町も寄付すると言われて感謝するような状況にはありませんでした。しかし、ダチョウは生き物です。生きて、走って、エサを食べます。小鳥と違って、では、ということで山に放すこともできません。かといって、ダチョウを全部捕まえて、大都会の後継者のもとに運んでいくことも非現実的でした。「皆殺し」にするか、「面倒みるか」のどちらかの選択しかありませんでした。
いなかの人間は基本的に「人がいい」し「優しい」のです。降ってわいたような「災難」でも、現実に生きているものを、しかも人間の都合で飼われていたものを「殺す」という発想はできませんでした。ちなみにダチョウは結構長生きします。まして天敵がいない状況で飼育されているとなれば、なおさら・・・・・
かくして吉備中央町には現在も「ダチョウを放鳥しているダチョウ牧場」があります。